
2002年日韓ワールドカップが終わると、日本代表監督はフィリップ・トルシエ監督からジーコ監督へと代わりました。
ジーコは、ブラジル代表の名選手であり、鹿島アントラーズの礎を築いた人物でもあります。
日本サッカーにおいては、単なる外国人監督ではありません。
Jリーグ創設期から日本サッカーの発展に深く関わり、日本に「プロフェッショナルとは何か」を伝えた存在でもありました。
そのため、ジーコ監督の就任は、当時の日本サッカーにとって非常に大きな意味を持っていました。
トルシエ監督がフラット3、ラインコントロール、オフサイドトラップによって日本代表に組織的な戦術を叩き込んだ監督だったとすれば、ジーコ監督は選手の自由、個人の判断、ブラジル式の発想を重んじた監督だったと言えます。
しかし、ここにジーコジャパンの魅力と難しさがありました。
中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一、遠藤保仁、小笠原満男、高原直泰、柳沢敦。
当時の日本代表には、後に「黄金世代」と呼ばれる選手たちがそろっていました。
だからこそ、ジーコ監督の「選手の自主性を重んじるサッカー」は、非常に魅力的に見えました。
しかし一方で、世界の強豪と戦うために必要な組織的守備、ラインコントロール、試合中の修正、攻守の約束事は十分だったのか。
2006年ドイツワールドカップで日本代表が突きつけられたのは、まさにその問いだったと思います。
結論 ジーコ監督は、日本代表に自由と自主性を与えた監督です。
しかし、当時の日本代表は、その自由を世界で勝つための戦術へ変換できるほど成熟していませんでした。ジーコジャパンの失敗は、個人を重んじたことではなく、個人を組織の中で最大化する設計が不足したことにあったのだと思います。
- ジーコ監督とは?日本代表を率いたブラジルの英雄
- なぜジーコ監督が日本代表に選ばれたのか
- ジーコ監督の戦術|全体よりも個人を活かすブラジル式サッカー
- ジーコ監督により消えたラインコントロール
- ジーコジャパンの基本システム|3-5-2と4-4-2の併用
- 黄金の中盤とは何だったのか
- ビリーの視点|組織と個人を融合させる3-4-3可変システム
- 試合ごとにメンバーを代えるターンオーバー
- 2006年ドイツW杯で見えたジーコジャパンの限界
- ジーコ監督は失敗だったのか
- ジーコ監督と他の日本代表監督の違い
- まとめ|ジーコ監督は日本代表に何を残したのか
ジーコ監督とは?日本代表を率いたブラジルの英雄
ジーコ監督の基本プロフィール
ジーコの本名は、アルトゥール・アントゥネス・コインブラです。
「ジーコ」という名前は愛称であり、一般的には「やせっぽち」という意味を持つ言葉に由来すると言われています。
選手時代のジーコは、ブラジル代表の10番を背負った世界的名手でした。
正確なキック、創造的なパス、ゲームを読む力、そして得点力を兼ね備えた攻撃的MFであり、「白いペレ」とも呼ばれた存在です。
日本では、鹿島アントラーズの前身である住友金属時代からチーム作りに関わり、Jリーグ創設期の鹿島を強豪クラブへ導いた人物としても知られています。
- 本名:アルトゥール・アントゥネス・コインブラ
- 愛称:ジーコ
- 国籍:ブラジル
- 現役時代の主なポジション:攻撃的MF
- 日本代表監督期間:2002年〜2006年
- 主な実績:2004年アジアカップ優勝、2006年ドイツW杯出場
- 代表的な特徴:選手の自主性、個人の判断、ブラジル式サッカー、黄金の中盤
日本サッカーにとって特別な存在だったジーコ
ジーコ監督を語る時、単に「戦術家だったかどうか」だけで評価するのは少し難しいところがあります。
ジーコは、日本サッカーにとって特別な人物でした。
Jリーグ創設期に鹿島アントラーズへプロ意識を植え付け、日本の選手たちに勝者のメンタリティを伝えた存在です。
日本人選手に対しても敬意を持ち、真面目さ、技術、努力を高く評価していた人物だと思います。
だからこそ、2002年日韓ワールドカップ後にジーコが日本代表監督へ就任したことには、日本サッカーがブラジル式の技術と自由をもう一度取り入れようとした意味があったように感じます。
ただし、ここで問題になるのは、ブラジル式の自由が、そのまま日本代表に適合したのかという点です。
なぜジーコ監督が日本代表に選ばれたのか
トルシエ監督後の日本代表に求められたもの
2002年日韓ワールドカップで、日本代表は初めて決勝トーナメントへ進出しました。
トルシエ監督は、フラット3、オフサイドトラップ、ラインコントロールによって、日本代表に組織的な戦術を持ち込みました。
その成果として、日本はワールドカップでベスト16に進出します。
しかし一方で、トルシエ監督のサッカーは非常に管理的でもありました。
監督がチーム全体の動きを細かく定め、選手はそのルールを実行する。
これは当時の日本代表に必要な段階でしたが、選手の個性や創造性をどこまで引き出せたのかという課題も残りました。
その反動として、次の日本代表には、より自由で、より個人の判断を活かす方向性が求められたのかもしれません。
ブラジル式への原点回帰
日本サッカーは、長い間ブラジルから大きな影響を受けてきました。
技術を磨くこと。
個人で局面を打開すること。
創造性を重んじること。
ボールを大切にすること。
こうした価値観は、日本サッカーの中にも強く残っていました。
トルシエ監督によって組織的な戦術が持ち込まれた後、日本サッカー協会がジーコを選んだ背景には、ブラジル式の技術、自由、個人の力への期待があったのだと思います。
つまりジーコ監督の就任は、単なる監督交代ではありません。
日本代表が「組織で戦うチーム」から「個人の力を活かすチーム」へ方向転換しようとした出来事でもありました。
対比 トルシエ監督が日本代表に組織を与えた監督なら、ジーコ監督は日本代表に自由を与えた監督です。
問題は、その自由を世界で勝つための戦術へ変換できたかどうかでした。
ジーコ監督の戦術|全体よりも個人を活かすブラジル式サッカー
組織的戦術から個人的戦術へ
トルシエ監督の日本代表を「全体で連動する組織的戦術」と表現するなら、ジーコ監督の日本代表は「個人を活かす個人的戦術」と言えるかもしれません。
ジーコ監督は、選手の能力、判断、ひらめきを重んじました。
細かい決まりごとで選手を縛るよりも、ピッチ上の状況を選手自身が判断することを大切にした監督だったと思います。
これは、ブラジル人監督らしい考え方でもあります。
技術の高い選手が、自分の感覚で最適なプレーを選ぶ。
局面では個人の判断が尊重される。
チームの形よりも、選手同士の関係性やアイデアを重んじる。
この考え方自体は、決して間違いではありません。
問題は、当時の日本代表が、その自由をチーム全体の戦術へ昇華できる段階にあったのかということです。
選手の自主性は武器にも弱点にもなる
選手の自主性は、サッカーにおいて非常に重要です。
監督がすべてを指示しても、ピッチ上で起きる状況を最後に判断するのは選手です。
だから、選手が考えること、自分たちで修正すること、状況に応じて判断することは必要です。
しかし、自由には土台が必要です。
守備の基準。
攻撃の立ち位置。
ボールを失った時の切り替え。
相手に押し込まれた時の撤退ライン。
誰が前へ出て、誰がカバーするのか。
こうした共通認識がないまま自由だけを与えると、選手の判断はバラバラになります。
ジーコジャパンは、まさにこの難しさを抱えていたチームだったと思います。
ジーコ監督により消えたラインコントロール
トルシエのフラット3からマンツーマン守備へ
トルシエ監督時代の日本代表は、3人のセンターバックが横一線に並ぶフラット3を軸にしていました。
守備ラインを高く保ち、オフサイドトラップを使いながら、チーム全体で前へ出る守備です。
一方、ジーコ監督になると、守備はよりマンツーマン的な考え方へ変わっていきました。
相手FWが1人であれば3バック、相手FWが2人であれば4バックというように、相手の前線の人数に合わせて最終ラインの人数を変える考え方も見られました。
これは、相手に合わせるという意味では合理的です。
しかし、トルシエ時代にあった「チーム全体でラインを動かす」という強烈な基準は弱くなっていきました。
2005年前後にはオフサイドの解釈も変わり、単純なオフサイドトラップだけで守ることは難しくなっていました。
そのため、トルシエ時代のフラット3をそのまま続ける必要があったとは思いません。
ただし、ラインコントロールそのものまで薄れてしまったことは、日本代表にとって大きな後退だったように感じます。
守備の約束事が見えにくくなった
ジーコジャパンの守備は、個々の選手の対応力に頼る場面が多かった印象があります。
中澤佑二、宮本恒靖、坪井慶介、加地亮、三都主アレサンドロ、駒野友一。
個々の選手は優秀でした。
しかし、世界の強豪相手に守るには、個人対応だけでは足りません。
どこでボールを奪うのか。
どこまで下がるのか。
サイドに誘導するのか、中央を閉じるのか。
中盤と最終ラインの距離をどう保つのか。
こうした守備の約束事がはっきり見えにくかったことが、ジーコジャパンの大きな課題だったと思います。
課題 ジーコジャパンは、個人の能力を信じたチームでした。しかし、守備の共通基準が弱いまま世界と戦うには限界がありました。
ジーコジャパンの基本システム|3-5-2と4-4-2の併用
相手に合わせて形を変えたジーコジャパン
ジーコ監督は、フォーメーションそのものに強くこだわるタイプではありませんでした。
よく使われた形は、3-5-2と4-4-2です。
相手の前線の人数や、日本代表の選手構成に応じて、3バックと4バックを使い分けていた印象があります。
ただし、その可変はトルシエ監督のように、チーム全体の動きが明確に設計された可変というよりも、相手に合わせて選手配置を変える意味合いが強かったように感じます。
ジーコ監督の3-5-2
ジーコジャパンの3-5-2は、次のような形が基本イメージになります。
柳沢 高原
中村俊
三都主 駒野
福西 中田英
中澤 宮本 坪井
前線には柳沢敦と高原直泰。
トップ下に中村俊輔。
中盤には福西崇史と中田英寿。
両サイドに三都主アレサンドロと駒野友一。
最終ラインに中澤佑二、宮本恒靖、坪井慶介。
選手の名前だけを見ると、非常に魅力的なチームです。
しかし、この形では、守備時にサイドの背後をどう守るのか、中盤の守備範囲をどう整理するのか、攻撃時に誰が幅を取り、誰が内側へ入るのかという約束事が重要になります。
そこが曖昧になると、個人の技術はあっても、チーム全体のバランスは崩れやすくなります。
ジーコ監督の4-4-2
時間が経つにつれて、ジーコジャパンでは4-4-2の形も多く使われるようになりました。
柳沢 高原
中村俊 小笠原
福西 中田英
三都主 中澤 宮本 加地
4バックにすることで、サイドの守備は整理しやすくなります。
しかし、攻撃面では中村俊輔、小笠原満男、中田英寿、福西崇史らの距離感や役割分担が重要になります。
誰がボールを受けるのか。
誰が前へ出るのか。
誰がバランスを取るのか。
サイドで幅を取るのは誰なのか。
こうした設計が曖昧だと、才能ある選手たちが同じエリアに集まり、攻撃が中央に寄ってしまいます。
ジーコジャパンには、まさにその傾向があったように感じます。
黄金の中盤とは何だったのか
中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一の魅力
ジーコジャパンを語るうえで避けて通れない言葉が、黄金の中盤です。
中田英寿。
中村俊輔。
小野伸二。
稲本潤一。
さらに小笠原満男、遠藤保仁、福西崇史らもいました。
今振り返っても、非常に豪華なメンバーです。
中田英寿は、世界基準のフィジカルと判断力を持つ選手でした。
中村俊輔は、左足のキック、パス、セットプレーで違いを作れる選手でした。
小野伸二は、ボールタッチ、視野、技術において日本史上屈指の才能を持つ選手でした。
稲本潤一は、ダイナミックな守備と前への推進力を持っていました。
彼らを同時に使いたくなる気持ちは分かります。
むしろ、当時の日本代表を見ていた人の多くが、「この才能をどう並べるのか」に夢を見ていたのではないでしょうか。
豪華な中盤をどう組織に変えるか
しかし、良い選手を並べることと、良いチームを作ることは同じではありません。
中盤に技術のある選手が多いほど、役割分担は難しくなります。
全員がボールを受けたい。
全員が中央でプレーしたい。
全員が自由に動きたい。
そうなると、幅を取る選手、背後を狙う選手、守備のバランスを取る選手が不足します。
黄金の中盤は、日本代表の夢でした。
しかし同時に、戦術設計の難しさを象徴する言葉でもありました。
黄金の中盤 ジーコジャパンの中盤は豪華でした。しかし、豪華な選手たちをどう組織の中で機能させるのかという設計が不足していました。
ビリーの視点|組織と個人を融合させる3-4-3可変システム
組織か個人かではなく、組織の中の個人
当時のジーコジャパンを見ていて、筆者ビリーが感じていたのは、「組織か個人か」という二択そのものへの違和感でした。
サッカーにおける理想は、組織か個人かではありません。
大切なのは、組織の中で個人を活かし、個人のレベルが組織のレベルを引き上げることです。
トルシエ監督のように組織だけを強く求めても、選手の創造性が消えてしまう可能性があります。
一方で、ジーコ監督のように個人の自由に任せすぎても、チーム全体のバランスが崩れてしまいます。
重要なのは、組織と個人を対立させることではなく、両方を融合させることだったと思います。
3バックを使いながらラインコントロールを残す
もし当時の日本代表で3バックを使うなら、トルシエ監督が持ち込んだラインコントロールの考え方は残したかったところです。
フラット3をそのまま再現する必要はありません。
しかし、守備ラインをどこに設定するのか、誰が前へ出て、誰がカバーするのか、チーム全体でどうスライドするのかという基準は必要です。
そのうえで、中田英寿、中村俊輔、小野伸二、三都主アレサンドロ、加地亮らの個性を活かす。
そう考えると、3-4-3をベースにした可変システムは、一つの可能性だったと思います。
3-4-3の基本形
基本形のイメージは、次のような形です。
高原
小野伸 中村俊
三都主 加地
福西 中田英
中澤 宮本 坪井
この形では、高原直泰を中央に置き、小野伸二と中村俊輔をシャドー気味に配置します。
三都主と加地が幅を取り、中田英寿と福西崇史が中盤でバランスを取る。
中澤、宮本、坪井の3バックが守備ラインを管理する。
これなら、個人の創造性を残しながら、チーム全体の役割もある程度整理できます。
駒野友一がいれば、三都主、加地、坪井の複数ポジションに対応でき、交代戦術にも使いやすくなります。
三都主も左サイドハーフ、ウイングバック、サイドバックに近い役割を担えるため、試合中の変更に使いやすい選手でした。
4-3-3へのシステム変更
攻撃時には、3-4-3から4-3-3のように変化することも考えられます。
高原
三都主 中村俊
小野伸 中田英
福西
駒野 中澤 宮本 加地
三都主と中村俊輔は、ウイングとサイドハーフの中間のような役割です。
小野伸二と中田英寿が中盤でボールを受け、福西がアンカー気味にバランスを取る。
サイドで幅を取りながら、中央では技術のある選手が関係性を作る。
ポジションを入れ替えながらマークを外し、個人の技術と連携を活かすイメージです。
4-1-4-1へのシステム変更
守備の安定を重視するなら、4-1-4-1に近い形も考えられます。
高原
三都主 小野伸 中田英 中村俊
福西
駒野 中澤 宮本 加地
この形では、福西がアンカーとして中盤の底を支えます。
前の4枚は、サイドで仕掛ける選手と中央で組み立てる選手を併用できます。
中盤に厚みを作りながら、サイドの選手が自由に仕掛ける形です。
4-2-3-1へのシステム変更
さらに、4-2-3-1の形にすれば、守備と攻撃のバランスを取りやすくなります。
高原
三都主 小野伸 中村俊
福西 中田英
駒野 中澤 宮本 加地
この場合、小野伸二と中田英寿が入れ替わっても良いと思います。
小野をトップ下に置けば、ボールを収めて前線へ配球できます。
中田をトップ下に置けば、前への推進力と守備への切り替えを強められます。
今振り返っても、非常に豪華なメンバーです。
ビリー案の本質 ジーコジャパンに必要だったのは、個人を消す組織ではなく、個人を活かすための組織だったと思います。
試合ごとにメンバーを代えるターンオーバー
豪華な交代メンバーをどう使うべきだったか
ジーコジャパンは、交代メンバーも非常に豪華でした。
FWには柳沢敦、玉田圭司、大黒将志、巻誠一郎。
MFには稲本潤一、遠藤保仁、小笠原満男。
DFには坪井慶介、茂庭照幸、駒野友一。
これだけの選手がいれば、試合ごとにメンバーを調整しながら戦うこともできたはずです。
ワールドカップのような短期決戦では、コンディション管理も戦術の一部です。
すべての試合を同じメンバー、同じ形で戦うのではなく、相手の特徴や選手の疲労を見ながら、メンバーを入れ替える発想も必要だったと思います。
FWの使い分け
FWは、相手DFの特徴や味方との相性によって使い分けることができます。
高原直泰は中央で起点になれる選手です。
柳沢敦は動き出しや連携で味方を活かせる選手です。
玉田圭司はスピードとドリブルで変化を作れます。
大黒将志はゴール前での勝負強さがありました。
巻誠一郎は高さと献身性で違いを作れる選手です。
こうした特徴を、相手や試合展開に応じて使い分けることで、攻撃の幅はもっと広げられたはずです。
MFとDFのローテーション
中盤では、三都主、中村俊輔、小野伸二、小笠原満男をどう回すかが大きなポイントになります。
福西は、稲本や遠藤と組み合わせることで役割を変えられます。
遠藤を使えば、ボール保持と配球の安定感が増します。
稲本を使えば、守備強度と前への推進力を加えられます。
DFでは、駒野が左右のサイドバック、ウイングバックに対応できる存在でした。
3バックへ変更すれば、駒野、加地、坪井を入れ替えながら、体力管理をすることもできたはずです。
中澤や宮本も、茂庭と組み合わせながらローテーションする選択肢がありました。
もちろん、代表チームでは連係の問題もあるため、簡単にメンバーを入れ替えれば良いわけではありません。
それでも、ジーコジャパンの選手層を考えると、もう少し試合ごとの変化や交代戦術を使えたのではないかという思いは残ります。
2006年ドイツW杯で見えたジーコジャパンの限界
オーストラリア戦で崩れた試合管理
2006年ドイツワールドカップで、日本代表は初戦のオーストラリア戦に1-3で敗れました。
日本は先制しながら、終盤に立て続けに失点します。
この試合は、ジーコジャパンの課題を象徴する試合だったと思います。
リードした後、どう試合を閉じるのか。
相手がパワープレー気味に圧力を強めた時、どこで守るのか。
中盤を厚くするのか、最終ラインを下げるのか。
前線に走れる選手を入れて逃げ道を作るのか。
そうした試合中の修正が、はっきり見えませんでした。
選手の自主性に任せるチームほど、想定外の展開になった時に、共通の避難場所が必要になります。
ジーコジャパンには、その避難場所となる戦術的な基準が足りなかったように感じます。
クロアチア戦とブラジル戦で残った課題
続くクロアチア戦は0-0の引き分けでした。
勝たなければいけない試合で、決定的な差を作り切れなかったことは大きな痛手でした。
そしてブラジル戦では、1-4で敗れます。
ブラジル相手に先制したことは評価できます。
しかし、試合全体を通して見れば、個人の技術、判断、強度、戦術理解の差がはっきり出た試合でもありました。
ジーコ監督が目指したブラジル式の自由は、本家ブラジルを相手にした時、むしろ日本代表の未成熟さを浮き彫りにしてしまったようにも見えました。
自由だけでは世界と戦えなかった
2006年ドイツワールドカップで見えた最大の教訓は、自由だけでは世界と戦えないということです。
もちろん、選手の自由は必要です。
しかし、その自由は、組織の中で発揮されなければなりません。
守備の基準があるから、攻撃で自由に動ける。
立ち位置の約束事があるから、個人の判断が生きる。
チーム全体の設計があるから、選手の創造性が相手にとって脅威になる。
ジーコジャパンは、この部分で世界基準に届かなかったのだと思います。
ジーコ監督は失敗だったのか
結果だけを見れば評価は難しい
ジーコ監督を失敗と断じるのは簡単です。
2006年ドイツワールドカップではグループステージ敗退。
期待された黄金世代は、世界の舞台で結果を残せませんでした。
その意味では、厳しい評価を受けるのは当然です。
しかし、ジーコ監督が何も残さなかったわけではありません。
2004年アジアカップでは優勝し、ワールドカップ予選も突破しました。
選手の自主性を重んじることで、日本代表の技術や創造性を前面に出そうとしたことも、当時の流れとしては理解できます。
問題は自由を戦術に変えられなかったこと
ジーコ監督の問題は、自由を与えたことそのものではありません。
問題は、その自由を戦術に変える設計が足りなかったことです。
選手の自主性を重んじるなら、なおさら最低限の共通基準が必要でした。
守備のルール。
攻撃の立ち位置。
ボールを失った時の反応。
試合中に流れが悪くなった時の修正方法。
こうした土台があって初めて、選手の自由は武器になります。
ジーコジャパンは、個人の才能を信じたチームでした。
しかし、個人の才能をチームの力へ変換する仕組みが不足していたのだと思います。
評価 ジーコ監督の失敗は、自由を与えたことではありません。自由を戦術として整理しきれなかったことです。
ジーコ監督と他の日本代表監督の違い
トルシエ、オシム、岡田、ザッケローニとの比較
日本代表の戦術史の中で、ジーコ監督は非常に重要な位置にいます。
トルシエ監督は、監督主導で戦術を叩き込んだ監督です。
ジーコ監督は、選手の自主性と個人の判断を重んじた監督です。
オシム監督は、日本人の運動量と判断力を「考えて走るサッカー」へ変えようとした監督です。
岡田監督は、現実的な守備と日本人らしさを整理した監督です。
ザッケローニ監督は、攻撃的ポゼッションを伸ばした一方で、選手主導化による戦術停滞も見せた監督です。
アギーレ監督は、4-3-3と可変システム、縦に速い攻撃を提示した監督です。
この流れで見ると、ジーコ監督は「監督主導の戦術」から「選手主導の自由」へ大きく振れた監督だったと言えます。
- トルシエ監督:フラット3と組織的守備で、日本代表に監督主導の戦術を持ち込んだ監督
- ジーコ監督:黄金の中盤と選手の自主性に賭けた監督
- オシム監督:日本人の運動量と判断力を戦術に変えようとした監督
- 岡田監督:現実的な守備と日本人らしさを整理した監督
- ザッケローニ監督:4-2-3-1で攻撃的ポゼッションを伸ばした一方、選手主導化による戦術停滞も見せた監督
- アギーレ監督:4-3-3可変と縦に速い攻撃を提示した監督
まとめ|ジーコ監督は日本代表に何を残したのか
自由と自主性の可能性、そして限界
ジーコ監督は、日本代表に自由と自主性を与えた監督です。
トルシエ監督の管理的な戦術から一転し、選手の判断、創造性、個人能力を信じました。
その方向性には、確かに魅力がありました。
黄金の中盤と呼ばれた選手たちは、日本サッカー史の中でも特別な才能を持っていました。
彼らを自由にプレーさせたいという発想自体は、決して間違っていなかったと思います。
しかし、世界で勝つためには、自由だけでは足りませんでした。
自由を支える組織が必要でした。
個人を活かすための配置が必要でした。
守備の基準が必要でした。
試合中に流れを変えるための戦術が必要でした。
ジーコジャパンは、その部分で世界基準に届かなかったのだと思います。
- ジーコ監督は2002年から2006年まで日本代表を率いた
- 2004年アジアカップ優勝、2006年ドイツW杯出場を達成した
- トルシエ監督の組織的戦術から、選手の自主性を重んじる方向へ転換した
- 中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一ら黄金の中盤が大きな魅力だった
- 一方で、守備の約束事やラインコントロールは弱くなった
- ジーコジャパンの課題は、自由を戦術として整理しきれなかったことにある
- 個人を活かすには、個人を支える組織が必要だった
- 日本代表戦術史において、ジーコ監督は「自由と自主性の可能性と限界」を示した監督だった
ジーコ監督の日本代表は、夢のあるチームでした。
中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一を中心とした黄金の中盤には、日本サッカーの可能性が詰まっていました。
しかし、その可能性を世界で勝つための戦術へ変換することはできませんでした。
だからこそ、ジーコジャパンは単なる失敗として片づけるべきではないと思います。
日本代表が世界で勝つためには、組織だけでも足りない。
個人だけでも足りない。
必要なのは、組織の中で個人を活かすことです。
この課題は、ジーコ監督の時代だけで終わったものではありません。
その後のオシム監督、岡田監督、ザッケローニ監督、そして現在の日本代表にもつながる、日本サッカーの大きなテーマだと思います。
ジーコジャパンは、日本代表に自由の魅力を見せたチームでした。
同時に、自由を戦術へ変える難しさを、日本サッカーに突きつけたチームでもあったのです。